[ 2009年 06月 ]

06月01日 (月) 

先日の日記で、以前の日記を時々読み返していると記したのだけれど、最近はちょうど3年前の6月前後の日記を読み返していた。2006年6月ドイツワールドカップ月間・・・その時、息子は中3で田舎の小さな小さな学校のサッカー部員15人で県大会出場を目指して必死にボールを追いかけていた。そして奇跡とも言える県大会出場を果たした。

あれから3年・・・息子は高校3年になり部員も50人。今も泥だらけになりながら必死にボールを追いかけている。

昨日、高3になって初めて試合を見に行くことができた。

・・・なんだか見ているだけでシミジミとしてくる、なんだか涙さえ浮かんできてしまう。

彼がサッカーに目を輝かせて本格的にサッカーを始めたのは、小学校2年生。以前の日記にも記したように、その日ちゃんとしたサッカーシューズとボールを与えた。くる日もくる日も一緒にサッカーをしていた。すぐクラブにも入った。
小4の時にはリフティングの回数を抜かれた。あっという間だったけれど長い月日が経ったものだ。

僕も小学校の時、サッカー漬けの毎日だった。しかし足2本を折って小学校一杯でサッカーを辞めた。

息子も骨を折ったり成長痛や常に負っている負傷はあるものの、高校サッカーまで全力で取り組んでいる。

先日、50歳になってしまった年老いていく父親は、ボールを必死になって追いかけている姿を見ているだけで涙がうっすらなのである。その姿を見ているだけで感無量になるのである。

そして彼らの姿をみて、何事も一生懸命している姿には未来が見えてくるし希望が見えてくるのである。

そして、これまた2006年春あたりに記した「夢にはこの国を前進させていく力がある」と昨日の試合を見ながらつくづく思うのである。

だから僕も年齢を重ね、経験も重ね挫折も重ね成功も重ねた・・・この心と身体で精一杯の生きていく意志と夢を追いかけ伝えていこうと、また心するわけである。

残念ながら、試合はPK戦の末・・・負けた。
しかし70分の試合の中で、以前から言っているように「勝ち負けではなく夢や物語を感じたい」が見えた、感じた試合だった。だから大満足。息子も身長だけやけに大きくなってバランスを欠いていたが、やっと身体が出来つつあり、これからまだまだ続くであろう道のあるあらゆる可能性を示してくれた。素晴らしい夢をもらった試合になった。
(ちなみに息子は一番背が高い奴・・・チトッ細い。しかし確実に進化している・・・もちろんキングカズと一緒の背番号11)
・・・ということで50代に突入した父親も頑張る。

上の写真は、先日5月29日に群馬県高崎で行なわれた川原医師の講演会のロビーでのミニ写真展の様子。
私は行けなかったのだが、事務局に写真を郵送して展示していただく形となった。約25点のミニ写真展ながら、沢山の方に見ていただき尚かつ嬉しい感想もたくさん頂いた。地道にコツコツと・・・日常のバタバタ写真活動を縫ってのものだから、お知らせも出来ず事後報告となってしまった。

6月7日の川原尚行東京講演会でもミニ写真展を行なう。
ここでは以前も紹介した竹林カメラマンとの併設写真展。楽しみなのである。
そして翌8日も某小学校での講演会でも、やはりミニ写真展を行う。

小学生や中学、高校生・・・はたまた大学生。そして我々大人。
あらゆる人たちに見ていただく機会を増やして、心を伝えていく。地道にコツコツと・・・。

06月02日 (火) 

今年も引き続き写真展を地道に開催している。

今日は先の逗子と鹿児島の主催者の言葉を記してみたい。

逗子写真展の会場を提供してくださったカトリック教会神父 細井保路さんのブログより

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不思議な偶然が重なり、私のいる教会で、写真家内藤順司さんの写真展を開くことができました。
スーダンに単身乗り込み、過酷な条件の中で働く医師川原尚行さんの活動を追った写真展です。
この活動については、雑誌やテレビでご覧になった方も多いと思います。
写真の中から語りかけてくる人々のまなざしと、カメラのファインダーを覗くカメラマンの視点の深さに
心を打たれる写真展です。

診療所のベッドに横たわる女性の写真の脇に書かれていた言葉に目がとまりました。

「必要とされていることを感じる。支援を待っている人が、確かにここにいる」

これは、本当に深い、深い言葉です。
私たちは、目をそらしたくなるような現実に出会うと、「悲惨だ」「かわいそうだ」「悪いのは誰だ」
というようなことはすぐに言うけれど、その現実を抱きしめようとはしないのです。
しかし、「出会いを待っているものが確かに今、ここにある」ということに気づくことこそ、
人間にとって一番大切なことなのです。自分のいる今、この場所が、祝福されていると思える幸せは、
残念ながら、いつでも誰もが感じられるものではないでしょう。
しかし、問題がどれほどあっても、大切なものは、今、ここに、私の目の前にあるの
だ、と気づくことこそは、人としての幸せを感じることの、ひとつの形なのです。


聖書のひとつのエピソードを思い出します。裕福で善良な青年が、何か満たされ
ないものをかかえてイエスさまに会いに来ます。そして、「永遠のいのちを得るに
はどうしたらよいか」と質問します。イエスさまは、「自分の持っているものを人
に施しなさい」と答えます。助けを必要としている人に出会うならば、応援してあ
げるべき相手に出会うならば、今与えられているこの瞬間こそがすばらしいのだと
いうことに気づけるのです。

細井保路

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僕は特定の宗教の信者ではない。しかし宗教心はわかるような気もする。
僕の姿勢としては宗教、宗派を超えて僕の写真は泳がせていたいと思う。
神父・細井保路さんを踏まえて人間・細井保路さんとしてほんとうに感謝している言葉なのである。
ただただ感じてみてください。ほんとうに「さすがっ!!」という文章なのだと思う。

感じてくれて「ありがとう」という感じ。地道にやってきて良かったと感じる一瞬の言葉なのである。

しかし僕はと言えば「永遠のいのち」を得たいと思ったことがない。
そして先月末でも記したように「ぼくは、この自分の生命が・・・自分だけのためにあると思っていない」
というのが、心のど真ん中にある。それは愛する数々の音楽を聴き続けてきたからなのか?
・・・なんだか、わからないけれど僕が実践したい、伝えたい心を見事に表している細井さんの素晴らしい深い一文なので
紹介させていただいた。


引き続き、鹿児島での写真展主催者の言葉・・・写真展告知に使っていただいた文章より
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この写真展はタイトルにある『もうひとつの』というのがキーワードになっています。
アフリカ大陸で最大の面積を誇る国スーダン共和国は今も燻っている内戦の影響を引きずりながら紛争難民を200万人抱えています。
ニュースとしてメディアで常に報道されているが、その写真はいつも銃を手にした人や紛争最前線の写真、飢えとマラリアで死んでいく悲惨な姿ばかりです。それが、私達日本人が知っているスーダンです。
そして、カンボジアも過去のポルポト派独裁政権の下、難民は一説に100万〜300万人と溢れ、未だに人々の荒廃した生活やエイズ患者の死、地雷の危険性、紛争の傷跡を残しています。これもまた私達がニュースで報道されるカンボジアの姿です。
これらは報道カメラマンや報道番組で伝えられる国の姿で、直視しなければならない現状です。
しかし、先の見えない未来を知り心痛むばかりでもあります。
もっと、国の内部に入れば、今日を一生懸命生きようとしている沢山の人々がいて、
そこには消えかけて行く命を、自分の命の危険と隣り合わせで救い上げようと活動している人々がいるのです。
そして、ちゃんと家族という絆で結ばれた人々が一日一日を暮らしています。
その、なかなか報道されない現地の命の輝きと苦難の中の屈託のない子供達の笑顔と日本人が置き忘れている愛が詰っている写真が『もうひとつの』というテーマなのです。

その中の日本人3人に注目し、写真を撮り始めたカメラマンがフォトグラファー内藤順司氏です。


他にもそれに付随して、環境の破壊も追い討ちをかけています。
途上国での温暖化による干ばつ、水位の上昇の、水質の汚染・・・・それらにも目を向けて
あらゆる角度から人間を見つめ写真に収めています。

内藤氏を少し説明します。
1959年広島県広島市生まれの49歳。  
1980年カメラマンのプロとして活動を始める。主に音楽フォトグラファーとして、浜田省吾、スピッツ、夏川りみ、小山卓治、スターダストレビュー、佐野元春、あんべ光俊ほか多くのアーティストのオフィシャルフォトグラファーとして活躍中、その数は3000本を越える。きっと、殆どの方が何かしらの形でこの内藤氏の写真を目にしていると思います。
音楽カメラマンとして、基盤をしっかりと固める傍ら、2006年スーダンで医療活動する川原尚行医師を知る。一目で医師に釘付けとなりそこからスーダン、カンボジア、地球環境の写真へと発展していく。
内藤カメラマンの写真の基本は”人のこころと命の輝き”。
今回の写真展を主催・企画した私の思いは色んな視点から写真を感じて、未来を背負っていく子供達やその親となる若い人たちに見て頂きたいという気持ちです。


会場の『かごしま環境未来館』も昨年の秋にオープンし環境をテーマにした体験型公共施設です。
屋根が芝生で登って遊ぶことが出来ます。お子様と一緒に遊びながら学ぶことが出来、沢山の市民が利用してこそ、公共施設の有意義な使い方だと思います。
入場、入館は無料です。本当に素晴しい写真展なので、是非足を運んで頂ければと思います



最後にカメラマン内藤氏の言葉を。
「生きていく素晴らしさ、苦難を越えていく素晴らしさ」を、それらを通して少しでも感じてもらえればと思う。
日本が失った家族の型・・・スーダンやカンボジアから学ぶべきものも実に沢山あるのである
しかし僕はやはり・・・それらによって犠牲となっている弱者と共に
「ひとつずつ大切な芽を育てたい、日本人の僕たちがどのようにして友情を築き、
共に歩んでいくことを写真に記録していきたい、そしてその物語を伝えたい」
ネガティブな事実だけではなく、少しでものポジティブな芽を出す作業をこれからも続けて行き、多くの方々に写真を見て頂きたいと思っています。
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上記のお二人のような暖かい心のもとに写真展を続けている。
僕だけのつたない写真や文だけでは伝えきれない心を、お二人が伝えていただけてると感じる。
それらの写真展を見に来ていただいた方からも同様の感想もたくさん頂いた。
だから地道にこれからも写真展示を続けていこうと思う。

こうして写真が育っていくのだなとも感じている。

このお二人の気持ちや写真展で出会った沢山の心を携えて、今月14日から4度目になるスーダン渡航をしようと思っている。

しかし、たぶん僕は渡航前日まで乗り越えなければいけない大切な大切な大いなる音楽写真としての「もうひとつ」の生業がある。だからまずは目の前の仕事に息子に負けないように全力で挑んでいきたいと思う。



最後に、鹿児島写真展の会場で取材を受け翌朝の西日本新聞に掲載していただいた僕の言葉・・・

「世界で日本が果たせる役割があることを、頑張っている人たちの写真を通して若者に伝えたい」


写真展初日の午前中に受けた取材・・・情けないけれど、この言葉を覚えていない。
なにせ前日の展示準備のあと手伝っていただいた主婦連合、医大生と深夜まで鹿児島焼酎を飲んでた僕は取材を受けたことは覚えていたとしても、何を話したかまでは覚えていない。
しかし、やはり言っていたのだなぁと思う。僕の意識を超えて発している言葉、そして写真に内包する物語と心。

まだまだ伝えていきたいと思う。飲み過ぎの自戒を踏まえて・・・。

・・・なので、遠慮なく「写真展開催したい」意志を伝えてください。これからもどこでもお伺いします。


必要とされていることを感じる。支援を待っている人が、確かにここにいる

06月11日 (木) 

5月下旬に、50歳を迎えた。

50歳・・・何度も書き記しているような気がするけれど、やはり大きい。
重いというか? ドッシリくる感じ。

50歳としての大人である自分。
あらゆる経験の積み重ね、まだまだヤンチャだけれど確かに経験を重ねたドッシリとした自分もいる。
もう少々なことでは動じない。より無駄なものは削ぎ落とし真っすぐに生きる。

20歳から始まったプロフォトグラファーとしての道・・・音楽のお陰でまだまだ若い心と身体の気迫は維持できている。
だから気分はまだ20代なので、50歳というのには、まだギャップがある。身体が馴染まない感じ。

6月に入ってからも今日まで休むことなく動いてきた。

しかし、前の日記6月2日のあと、数時間経った3日の早朝Am3時に強烈な痛みが襲ってきた。
これまで体験したことのない痛み・・・50歳になって数日後、人生で初めて救急車のお世話になった。

・・・おっと余計な、そして過敏な心配はしないでくださいね。
ちゃんと治療をしていけば治る病気ですのでね。

しかし、たぶん自分の中では初めてと言っていい大きな病気・・・50歳を迎えるとともにやってきた洗礼。

救急病院で処置してもらい何とか痛みが和らぎ取りあえず3時間後に帰宅。

そして2日間は、何ともなかったのだが、また痛みが始まる。病院でもらった痛み止めで少し治まる。

えーいっ・・・面倒くさいし余計な心配をかけるので病名ー言っちゃうっ。

「尿管結石」・・・腎臓に結晶体の石ができ、それが尿管に流れ出して詰まるというもの。
石の場所によって不定期的に強烈な痛みが腰あたりを襲ってくる・・・ピークは息も出来ないくらい。。。

その間にも浜田省吾東京JCBホール2days、そして5/22付けのアーティストの撮影を2days。
力量と存在感のあるアーティスト・・・かなり大掛かりな丸2日間の長時間に渡る撮影となった。
「やるだけやった・・・」という感じ。初めてのセッションで被写体も僕の方もすごい集中力で身体はヘロヘロまで達したが手応えのある強い写真が撮れたと思う。
そして川原医師の東京講演会と小学校講演会に併設の形で展示した写真展2days。

すべてのスケジュールが折り重なるように、「尿管結石」ピーク状態の痛みとも闘いながら奇跡的に、どうにか乗り越えた。
特に6/7から6/8にかけての状態はヒドかった・・・朝から川原医師東京講演の写真展示仕込み、鈍痛がずっとある。
長い1日を考え痛み止めを使う。そして講演会が始まる前に浜田省吾JCBホール2日目に午後1時半には入る。ずっと鈍痛が続く。
そしてどうにか本番を終えたところで激痛が走り痛み止めを再度使う。痛み止めは6時間を超えなければ再度使うことができない。帰宅し撮影してきた写真を整理する。激痛が1時間おきに激しく襲ってくる。

深夜12時にこれから続く翌朝の小学校写真展示、大掛かりな撮影2days、そしてスーダン渡航へのキャンセルを真剣に考える。痛みが止まらない。寝たいけれど激痛で寝ていられない。
痛みの波が落ち着いたところで、念のため各関係者に今の状態と「もしもの時・・・」を電話で伝える。
長い30年間に渡る約3000本の仕事・・・今まで一度もキャンセルで飛ばしたことはない。
・・・しかしである。

そして断続的な痛みが治まらず今度はタクシーで深夜の救急病院へ・・・。
朝方4時に戻ってきて少し痛みが落ち着いたところで朝8時まで爆睡。
そして川原医師と合流して小学校、写真展示を完了させる。
川原医師にも相談する・・・そして残量が少なくなってきた痛み止めを大量に出してもらうため再び病院へ。

強烈な痛みという小さな爆弾を抱えて1日1日どうにかキャンセルしないで乗り越えた。
川原さんが「ほんとうは、やはり安静にしておくのがベストなんだけどね。内藤さんの今のスケジュールだと無理だよね」と苦笑いの会話をする。
彼も日本帰国後も落ち着くことなく全国を飛び回っている。平均睡眠3時間で相当ヘロヘロ。
2人して苦笑いしかないのである。しかしヘロヘロ同士の絆も強くなっていくのである。

深夜の救急以来・・・どうにか激しい痛みは収まってくれている。
休めず動いている内になくなった。相当身体は疲れているので、いつまた強烈な痛みが襲ってくるかという感じなんだけど、まだ腹部に鈍痛や違和感を感じるし・・・。

抱えている仕事は、仕事の特性上・・・僕以外にできない。
病気だからといって友人カメラマンに代行してもらうわけにもいかない。
自分の写真の個性で相手も依頼してきてくれているのだから、僕以外には撮れないのである。

だから哀しいけれど、どうにか立っていられてシャッターが押せる状態では、どうしても行く。

今週末からスーダンに渡航。川原医師にも迷惑をかけるのだが現地での痛みに対しての対応の相談もした。
このまま痛みが沈静化してくれていればスーダン渡航にも行く。強烈な痛みが継続的になるようだと断念せざるおえない。

今日は昨日までの大掛かりな撮影2daysの写真の整理とデザイナーへの引き渡し、そしてJCBホール2daysの仕上げの基礎作業。撮影が終わっても作業はまだまだ続く。

そして明日は再び病院で、より精密な検査の為にCT検査に入る。結果を聴くのは帰国後の翌日。
その翌日はまたライブの撮影。すでに10月上旬までの撮影日程が入ってきている。
その期間も間に入ってくる撮影もあるだろう。
当分は、この病気と闘いながらの撮影の日々が続きそう・・・休みたくても休めない責任のある50歳の大人と特殊な裸一貫の職業。

今年は本当に丁寧に身体の検査を重ねてオーバーホールを念入りにしていく年になりそうである。
50歳の洗礼・・・そして止まれない50歳の責任。
両手に抱えながら続けていく。  スーダン渡航まであと3日。それまでまだ沢山やることがある。とほほっ!
上の写真は、6月7日 川原医師東京講演会のエントランスに写真展示したもの。
写真左は、竹林カメラマン、川原さん、ぼくとの3ショット。
笑顔の僕だが、この日は鈍痛が常にあり夜には激痛の嵐となった。しかし、現場はあくまで笑顔で乗り越えていく。
写真展示は竹林カメラマンとの初のコラボ・・・画面左側に竹林写真、そして右側に僕の写真。2人合わせて約60点近く展示した。
僕はJCBホールでの撮影の為、準備だけで会場を後にしたのだが、講演会も盛況で沢山の方が聴きにこられたようだ。
盛会の一助になれて嬉しい限り・・・これからも機会があれば竹林カメラマンとのコラボは続けていきたいと思う。
僕だけの写真展も良いのだが、僕から目線だけではなくいろいろな人の目線が入ることによって、よりスーダンが見えてくると思う。
引き続き6月8日の小学校での講演会&写真展示。
前日6/7の夜にJCBライブから帰宅して、激痛の嵐の末・・・また夜中の救急病院。朝方4時に帰宅して、つかの間の睡眠。
そして小学校・・・しんどかったけれど、なんだか嬉しい気分。子どもたちと触れあうと力をもらえる。

川原医師も僕も無料奉仕だけれど、彼らとの触れあいが何よりもの宝物。彼らに伝えられていく充実感が何よりもの財産。
講演後は学校給食を一緒にいただき、記念撮影。スーダンやカンボジアの子どもたちの瞳も美しいが、日本の子どもたちも知り合いになって時を一緒に少しでも過ごすと本当にリラックスした可愛い表情と瞳の輝きがある。
次世代を担う子どもたちに伝えていく・・・そして学校の先生の一生懸命さにも感謝、感謝なのである。

こうして密に触れ合っていくと「どっこい日本も捨てたもんじゃないっ」
まだまだ輝けるし広がっていくと思える。経済至上主義ではない豊かな人間としての環境づくり。
僕たち大人が一生懸命繋がっていかなければと思う。身体は終わりそうだったけれど元気をもらえた6/8の一コマであった。

アーティスト関係の写真は肖像権や著作権があるので、この日記では残念ながらお見せできないので、あしからずねっ。
各方面の発表されていく写真を見てくださいね。
・・・だから自然とスーダン関係やアーティストに関係のない写真や文が増えていってしまうのよね・・・そこんとこもよろしくっ!!

06月14日 (日) PM03:00サイトアップ

12日は、午前中からミーティング、出発前の各納品、そして病院に行って初のCT検査・・・ちとっドキドキの初体験だったが、あっさり終わってしまった。

すべてが初体験尽くしなので、病気なんだけれど興味津々で楽しい。

そして改めて思うことは、救急車は電話をかけて5分で来るし、夜中なのに多くの当直医さんや看護士さんが働いている。
搬送たらい廻しや医療事故などがいろいろ報告されるが、やはり日本は相当な進歩した医療体制で日々行なわれているのを実感し感謝した。この普通のことが当たり前のことが、どんなに素晴らしいかを感謝しなければと思う。

スーダンの村であれば、尿管結石の患者は痛みに耐えるしかないだろうし、ハッサバラ村には日本の中古救急車が日々活躍しているけれど尿管結石だった場合は、ハッサバラ村はあくまで診療所なので、おそらく州都ガターレフ市まで搬送しなければいけないと思う。いくら急いでも1時間の道程・・・あの激しい痛みに耐えながらの搬送は堪え難いものだと思う。
それでも搬送してもらえるだけでも幸運なんだと思う。

・・・と、深夜の救急病院で思った。
そして改めての専門医の診察の際に、そんなことを担当医に診察の最中なのに、ペラペラと話した。
「改めて感謝ですよね、ありがとうございます」のお礼を言う。そしてBBSでも書いたように大量の痛み止めと、水腎症による熱が出た場合での現地で使用する薬も処方していただいた。
「そして気をつけて・・・頑張ってきてくださいね。帰国されたらCTの検査結果が出ていますから適切な処置をしていきましょう」と本当にありがたい言葉をいただいた。

以前にも日記で記したのだが、日本の医療は相当な水準で行なわれている。
それを患者も医者もお互いが支えあって育てていくという意識が何よりも大切なんだと感じる。

病気がきっかけだけれど日本の救急医療や病院通いで、僕としては良い勉強ができている。
だから病院に行くのも興味津々・・・そして病院で見るナースさんは、どうしてあんなに綺麗に見えるのだろう?
・・・とかも考えながらの通院である。
だから検温してもらうだけで「ありがとう」、血液検査の為の採血してもらってもチクリっの痛みとともに溜まっていく血を見ながら「ありがとう」。
そうしたらナースさんも「いいえ、どういたしまして」とやさしく微笑んでくれる。それにまたキュンとなる。

俺・・・変態患者みたいだけれど、胸きゅんの興味津々の出来事の連続で痛いけれど楽しんでいる。

そんな気持ちを持って改めて川原医師のスーダンでの活動が見れるのを楽しみにしている。

そして、昨日13日は、またまた新しく取り組んでいるアーティストの撮影を入れた。今週だけで丸々3日間の長時間撮影。
今後を考えていく中で、撮影しておいた方が良いという僕の判断からである。お昼過ぎから夜遅くまでの撮影となった。
出発前日だけれど一度撮り始めたら中途半端では終われないのである。
だから5/22付けの日記でも記したように踏みだすまでに真剣に悩むのである。
4年前に同じように川原医師のことを知り半年悩み抜いて勉強して始めた時と同じように、撮り始めたら真っすぐなのである。すでに相当な量の写真を撮った・・・約70GB、枚数は5000カットを超えていると思う。抜群の写真が撮れた。
真っすぐの綱渡りということで新アーティストからアフリカ川原医師へ渡り歩きます。

おそらく想像を巡らせていただいても良いのですが、今取り組んでいる新アーティストは、7月あたりにはお伝えできると思います。楽しみにしていてください。ヒントは、9月からアリーナツアーが始まる・・・です。
責任ある全力の取り組みをしていく覚悟です。
25年ぶりに再会してまだ1ヶ月も経っていない昨夜の別れ際も、「今日も精一杯やりましたね。明日から僕は紛争地帯に行ってきます」「ほんとうに気をつけて・・・いい仕事をしてきて、再会を楽しみにしてるよ」と固い握手をしました。


・・・なもので、とうとう渡航当日まで準備ができず、先程までカメラ・チケット・パスポート・大切な薬群・下着2枚、Tシャツ2枚、サッカーシャツ2枚、防虫スプレー、パソコン一式にカメラアクセサリー一式を慌てて荷造り。
僕の荷物は90%間でまでが撮影関係、あと10%が衣類含めてその他のもの。撮影なしだとコンビニ袋で済んでしまいます。
・・・で、あと荷物の中に入れると案外重いのが、日本ではいっさい着ないスーツ一式。
今回は日本の大使やスーダンのお偉いさんたちともお会いすることが多くなると思うので、日本からそのまま着ていくことにした。

50歳になった自分・・・病気も立派に抱え、スーツにネクタイ締めて羽田から旅立ちます。
おー何となく大人になった感じ・・・ただやっぱりそれにロングヘアーは変だよね。だけど不良のオッサンということで長髪は仕方ないのです。

それでは、うだうだ言ってないで「行ってきまーすっ」
あっ、そうそう・・・11日の日記以降たくさんの方からBBSだったり、「Contact」メニューから直接メール頂いたりとお見舞い?のメールをいただきました。

ほんとうにありがとう。病状を把握するのにも役立ちました。
石はまだ体内にいるみたいだけれど、8日過ぎからはおとなしくしてくれています。

ほんとうにありがとう。

元気に帰ってきます・・・では、今回は短期間ですので11日後に会いましょう。

ぼくの「もうひとつ」の故郷に行ってきます。



触れ合うことから始まる友情  触れ合うことから始まる協力

06月24日 (水) PM01:00記(日本時間 PM07:00)

実質10日間のスーダン滞在を終え、帰途につく飛行機のなかで書いている。
今回で4度目となるスーダン渡航、望郷の念まで抱きつつあるスーダン。そしていつもの約半分の滞在日数。
自分の仕事のスケジュールの関係で本当に短い滞在となった。
しかし中身の撮影は毎日毎日、盛りだくさん。
川原医師も僕も毎日、毎日倒れる寸前まで動き回り充実した撮影の毎日だった。
今回は、病気?を抱えての渡航・・・川原医師も移動時の薬保管を考えてくれ車用の冷蔵庫まで用意してくれた。
幸いにも多少の痛みはあれど、激痛までには至らず無事にスーダンでの撮影を乗り越えた。

今回の撮影は、以前にも記したようにメインは女子学校の開校式の式典の撮影。J'sファンデーション支援の給水塔修繕完了の撮影、そして当然ながら川原医師の医療活動、そしてスーダン人スタッフの医療活動、新たな水の調査や村人とのなかで話し合い浮かんでくる課題の様子。そしてロシナンテスの新しい支援事業のひとつであるスポーツ事業の少年サッカー、そこでの中心的な存在である三田コーチの活動の様子。彼がもうひとつ関わる女子サッカー。
そして、おまけに彼の計らいでワールドカップアフリカ予選スーダン代表対ガーナ代表の試合を見に行くだけではなくメディアとして写真まで撮らせていただいた。

・・・と、ここまで書いたところで急激に眠くなった。おやすみ・・・スーダンからカタールの途上で。

06月25日 (木) PM11:00 サイトアップ

ハルツームを出てから、27時間の移動を終えて、先ほど無事帰ってきた。
相当眠いので、今日は報告だけにする。明日は渡航前に受けたCT検査の結果を病院に聞きにいく。
ほんとうによく働いた、よく撮った。約3000カット、50GBを撮影した。
川原さんとも「お互い日本にいるときからずっと目まぐるしく動いているよね・・・スーダンに帰ってきてからも本当に過密だよね」・・・と、強靭な二人が成せる技の超過密な毎日が続いた。

・・・と、ここまで書いたところで眠くなった。今日はおみやげ代わりに写真を2枚掲載しておく。

「ただいま・・・そしておやすみ。。」


村の人々と共に歩んでいく・・・」 
2009年6月21日撮影 シェリフ・ハサバッラ村にて


・・・そして、生命の尊厳を見つめる」

2009年6月19日撮影 シェリフ・ハサバッラ村にて