[ 2006年 05月 ]

05月10日 (水)   

またまた久しぶりの更新・・・。

最近は、先月の日記でお伝えした「目指せスーダン」のことから、通常の仕事以外は、ほとんどその勉強やいろいろな方にお会いしている毎日で、暇さえあれば・・・その勉強。
この日常の日記を書く時間さえない日々を送っている。
大したことではないのだけれど、初めての取り組みに向かっている自分は、やはり時間的余裕がなく勉強や資料集めに必死なのである。それも自分が目指す、ただ1枚の写真を撮る為の大事な作業なのである。

昨年秋までは、スーダンという国も知らず、アフリカのどこにあるのかも知らず・・・
被写体になる人物と出会い、その方が・・・ただスーダンで活動していらっしゃるというところから始まった話。
この半年で、そしてこの一ヶ月で急激にあらゆることを吸収、勉強している自分。
まだまだ書き記せないことがあるので、もうしばらくお待ちください。
そしてスーダン以外にも新しい取り組みや夏や秋に向けての通常の音楽写真の仕事・・・ぼくは元気にやっています。

ただただ勉強する時間が増えているということです。
少しだけ僕が勉強中のスーダンについてお話ししようと思う。
たぶん多くの人がスーダンってどこ?・・・という感じだと思うので。

スーダンは、大ざっぱにいうとエジプトの下、そしてエチオピアの上。そして計9カ国に囲まれている東アフリカに位置するアフリカ最大の国土面積の国。1899年にイギリスによる南北スーダンの分割統治がはじまる、いわゆるイギリスの植民地。1956年にイギリス領より独立。そして幾度となく続いた南北の内戦が2005年1月に終わった。
しかし長年に渡り続いた内戦で大量の国外、国内難民が溢れ、まだまだ不安定な状態が続いている。
イギリスによる南北スーダンの分割統治の影響が色濃く残り、南部は主にキリスト教、北部はイスラム教。そして土着宗教も当然存在する。現政権はイスラム。そして南部には石油資源がある。内戦時には南部が主に戦場となった。
そして南部の休日は日曜日(キリスト教)、北部の休日は金曜日(イスラム教)と一つの国で、南北で休みの日が違う・・・まるで二つの国が一つになっている状態なのである。
そして南部が戦場になった関係で、大量に隣国エチオピアや北部への国内避難民がいて、いま国連や各国の各NGOの方々が難民を故郷に帰還できる活動をしている。その拠点が南スーダン。そして西スーダンにあるダルフール地方が紛争、虐殺、難民でもっとも世界的に今、注目されている場所。
昨日のニュースステーションでもCNNのジャーナリストが難民に襲われる事件が起きたと報じていた。

ぼくは今のところ南スーダンにも西スーダンのダルフール地方にも行かない。
僕が目指すのは、首都ハルツームの周辺に非難してきた国内避難民の方々や、スーダンという国の中で昔ながらに営まれる人々の暮らしや美しい風景、ここにもある美しい空や太陽やイスラムでもキリストでも美しい人々の手や瞳や母親の姿や父親の姿や、そんな村や街を訪ね、そこに今回の被写体になる方をクロスして描きたいと思っている。

僕は戦地や紛争地帯には行かない・・・行けない。
そこはジャーナリストの方々に任せたい。一人では完結しない。僕は違う視点で描きたい。

若い人には感覚がわからないかもしれないが、僕はアメリカとソ連の米ソ冷戦の時代に育ってきた。
比較的アメリカに近い日本では、ロシア・ソ連は怖い国と勝手に幼心に思っていた。
だけどその当時、僕の心には漠然としながらソ連にも家族や愛や人の営みがあるんだよなーと思っていた。
ただアメリカの情報や文化はたくさん入ってきて、逆にソ連の情報はなくて、ただただ恐ろしい国と思っていた。
・・・ただ素朴な疑問を抱えながら。
それがいつのことだったか忘れたし、たぶんポリスを解散して、たぶんスティングのソロファーストアルバムの楽曲の中にロシアにも家族がいる・・・愛がある。世界中同じように愛の営みがあるみたいな楽曲を聴いて、
「やはりそうだよなっ!! まったくその通りっ!!」と幼な心の疑問が一気に晴れ渡り、あっという間にスティングのファンになった。
幼い時には「ソ連の人たちもいい人だよねっ」と軽く言えなかったように、ぼんやり覚えてる。
今もそんなことが世界中に存在すると思う。日本に身近なこととしては北朝鮮。
「北朝鮮の人たちっていい人だよねっ」て気軽に言えない。拉致された家族の方々やご本人のことを考えると言えない。
だけど僕は思っている「北朝鮮の人たちも、きっといい人たちだよねっ、そこにも必ず愛する家族の関係があるし営む美しい暮らしがある」と・・・。
政治や拉致の問題が存在するけれど、それは解決していかなくてはいけないことを大前提に、そこに暮らす営む人々には罪はない。だから僕が北朝鮮に入れて営む暮らしや風景が撮れたとしたら北朝鮮にも行きたい。
報道には報道のプロ、政治には政治のプロが誇りを持って仕事をしていかなくてはいけない。
僕は僕らしく音楽から受けた心を持って、僕らしいスタンスの写真を撮り伝えていきたいと思う。
そんな心でスーダンでの撮影を考えている。ただ現実はそんなに甘くないので、できうるかぎりの準備や政治状況を冷静に分析して、撮影許可書まで必要なお国柄での撮影に対しての吟味を重ねて重ねて、はじめてGOとなる。
まだまだ一歩一歩の努力を当分続ける日々が続く。

そしてゴールデンウィーク明けての8日には、浜田省吾のツアーとアルバム発表告知がされた。
9月からは年末にかけて、またまたそこに没頭する毎日が待っている。スピッツもある。あんべ光俊もある。
小山卓治も新しいアーティストも沖縄もスローハンドもある。
それら全部抱えながら毎日毎日生きていく。

もちろん今年最大のイベント、心躍る1ヶ月のワールドカップサッカーも、近づいてきた。
昨日の日本代表対ブルガリアの一戦。見ているだけで涙が溢れそうになる。
左サイドの村井、村井、村井っー!! 前半終了間際のケガでの交代・・・・本当に残念無念。
試合相手によっては、三都主に変わる左サイドの村井の存在に期待を賭けてきた・・・なので本当に残念。。。とほほっ。
もし村井がケガで代表に選ばれなかったとしたら、三都主のもう一人の左サイドとして中田浩二を選出してほしいな。
あと玉ちゃん、玉田の頑張りっ。今シーズンは新天地グランパスで、1得点と結果は残せてないけれど・・・僕的にはやはり代表入りして欲しい一人。久保がいない時、ジーコジャパンで役割を担ってきた一人なのだから・・・。
玉田の必死のプレーを見ていて思わず汲みあげてきた。そして昨日は出場時間が少なかったけれど、ぜひ土曜日のスコットランド戦ではサンフレッチェの佐藤をフルに使ってもらいたい。なんてたって昨年の日本人最多得点だし、今シーズンも着実に結果を出している旬な選手なのだから・・・。
あと今回の最終選考を兼ねた2試合とは関係ないのだけれど、ぜひぜひフランス・ルマンの松井を代表にお願いします。
ぼくは、既にワールドカップ日本代表のユニフォームの松井、背番号32を手に入れた。このユニフォームを来て悲しいけれど現地ではなく、テレビの前で精一杯の応援をする。息子には中田、背番号7を手に入れた。
で、昨日はロケハンだったのだけれど、一緒にいろいろまわったデザイナーさんはドイツに行くんだとさっ。超うらやましい。彼女はスペインのファンでその1次リーグを観戦するらしい。超うらやましいっー。自分は息子と一緒じゃないと意味がないので、今回は涙を呑んで断念したわけだが・・・ユニフォームゲットの話を彼女にしたところ冷静に「背番号32」はないんじゃなーい」と言われてしまった。そっ・・その通りだよな。代表は23人なのでたぶんどうやっても23までだよな。俺・・・あせって32の松井ユニフォームを手に入れてしまった。とほほっ。
でも・・・その32には、この4年間の軌跡が詰まっているので、やはり背番号32を背負って僕は松井と日本代表を応援するのだ。ぜひぜひ松井が日本代表に選ばれますように・・・。
あと僕は三浦淳宏のユニフォームも、なんとか手に入れたいと思っている。今回の国内組代表最終選考を兼ねた代表に呼ばれてないということは、代表に選ばれる可能性は薄いのだが、僕は昨年のバーレーン戦前の三浦淳宏を忘れない。
だから三浦淳宏のユニフォームを下に、そして松井のユニフォームをその上に2枚重ねて着て応援したい。
要するにサッカーの話を始めるときりがないということである。興味の無い方にはほんとっ・・・つまんない日記になってすまんであるが、どうにも止まらない。
今週も土曜日目指して、勉強に仕事にがんばろっとっ!!    ・・・超不定期な日記でした。

05月14日 (日)   

さてさて、昨日の対スコットランド戦を終えて、明日15日の代表23人の発表を待つばかりとなった。
ここまで来たら誰が選ばれるにせよ・・ほぼ日本サッカーの色合いは決まっているので、まずは本戦1次リーグの3試合を精一杯応援し楽しむしかないのだ。

親バカでしかないのだけれど、ドイツ大会との引き換えに挑んでいる息子のサッカー。
金曜日12日に郡大会を優勝し、無事県大会出場を果たした。
県大会出場は4年ぶり・・・そして優勝は中学校設立以来、始めてのこと。
6月2日から県大会が始まり、もし勝ち進んだとしたらドイツ大会と日程が重なっていくことになる。
そして次はすぐに次の夏の県大会(7月下旬)に向けて、6月、7月と練習、試合が続いていく。
その頃、ぼくはすべてが順調にいけばアフリカの地にいるかもしれないのだが・・・・・。

ぼくは前日11日の試合を応援に行った。その日2試合を戦って勝ち、翌日の準決勝で勝てば県大会出場となる。上位3チームが県大会出場が今回の条件。そしてその2試合は2対1、8対0で勝った。まずは順等な勝ち方。
しかし翌日の準決に向けて、ふつふつとハガユサが湧いてくる。
息子はポジショニングにも精神も気迫もプレーも迷っていると感じた。
夕方、家に帰ってきた息子を呼び出し、ボクシング亀田の親父ほどではないが延々とその日の反省を言い渡した。
「声をもっと出せっ!! パスを出したら必ず走れっ!! ピッチの上では下を向くなっ!! 自分の役割をもう一度考えろっ!!
フルタイムの気迫の継続っ!!」などなど・・。
あまり細かなことを言うとわからなくなるので短く簡単に・・・。
息子は一生懸命しているのだけれど、なぜか気迫が外に出てこない、感じさせない。美しいサッカーをしようとしすぎるのである。
しかしここは気迫である。準決の相手は春の大会での優勝チーム。ここで負けても3位決定戦で勝てば県大会出場となるのだが、ぼくは勝手に燃え上がっている。翌日は都内で1時から仕事の打ち合わせの為、応援に行けない。

・・・が、しかし行ってしまった。打ち合わせの時間をズラしてもらい、朝一番の準決勝に行ってしまった。
気分としては昨年3月のイラン戦を札幌でスピッツの連中と観て、バーレーン戦に向けて沸々と心が沸き起こり奇跡的にチケットを取って現場に応援しに行った時の気分に似てた。そして今回はドイツ観戦を断念してまでもの試合。
勝っても負けても悔いの残らない良い試合をしてもらわないと困る。
そして準決の試合の前・・・普通はチームに合流した息子に話しかけることはない。
しかしその日だけは息子のところに行き、昨日の夜に話した基本的な心をあえて確認した。
そして最後に背中を強く叩いた。気迫入れである。

試合は、前半やはり声があまり出ないチームのなかば凡ミスで、先取点を取られた。
普通なら、ここでクシュンとしてしまうチーム。しかしまだまだ気合いと気迫である。
戦術に関しては監督がずっと大きな声で指示を出している。監督の気迫は凄い。頭が下がる。
ぼくらは精一杯の気迫で大きな声でひたすら応援する。ひとつひとつの良いプレーに精一杯の拍手を送る。
後半、PKのチャンスがやってきたが、惜しくも相手GKに阻まれた。体勢不利である。
それでも何度も何度も攻撃、どさくさに紛れて点が入った。そして5分後に逆転弾。
試合は2対1で勝利。前大会優勝チームの学校でのアウェイの試合で粘って粘って勝った。
運良くその2点を息子が決めることができた。前日10点得点したチームでの息子の得点は1点。
その日の試合は、はっきりとチームの足を引っ張っているのが見えた。立派な1点かもしれないが
「お前っ、自分の役割わかってんのか? お前、今日何本のシュートした? ひとつひとつのプレーが散漫なんだよ。だからパスして走らんのだろう・・・苦しくても走れっ!! それがチームのためになるんだから・・・」
本当に前夜、久しぶりに強く言った。強く言ったかぎりでは自分も仕事のスケジュールずらしても見届けようと行った。

すばらしい試合を見せてもらった。ぼくは決勝戦は観ずに東京に向かった。
たぶん将来、息子が大人になった時も、この日のことを僕にも息子の中にも共通の精神的に良い思い出ができた。
そういうひとつひとつが何よりもの生きていく宝物なんだと強く感じた。
ほんとっ長々と親バカですんませんっ。

ところで僕は、ここのところまた「コトー先生」に、はまっている。
ゴールデンウィークの休みの1日にコトーのビデオを見て、当然酒の量も入り・・・何話見たのか?
わからなくなった朝方・・・酔った勢いでなぜかオークションで、DVDスペシャルエディションとサウンドトラックCDと写真集まで一気にゲットしてしまった。そして来月6月には、ワールドカップ月間ではあるけれど恒例の沖縄放浪旅に出かける。コトーの舞台になった与那国島に行くことにした。初上陸である。そのまま沖縄各地に潜伏し7月のあんべ光俊ライブで那覇で合流する計画を立てている。
昨年は、浜田省吾と宮古島で合流したが、今年はあんべ光俊と合流。楽しい夏の始まりを南の島で満喫し撮影に励もうと思う。そろそろ沖縄の写真も本格的にまとめないとなーと、まだぼんやり考えている今日この頃である。
そしてその頃には、春駒五月女が進める沖縄事業の成果が全国に先立って石垣で発売される予定。詳細が決まれば、またこのサイトでも紹介したい。
この成果と僕の写真家としての頑張りが合流して、晴れて沖縄那覇に共同のギャラリーが発足することになる。まだまだ初期段階の一歩だが確実に歩んでいるので気長に待っていてくださいな。そしてなお一層の応援をよろしくです。
そして今日は、もう一筆。上の写真は、お味噌である。はるこま屋を代表する春駒味噌「あるちざん」。
原料の大豆、米、塩・・・すべてにこだわり、そして製造過程も試行錯誤の上、完成させた代表作である。
大豆はもちろん国産大豆・・・97%を輸入大豆に頼っている現状では本当に貴重な国産大豆。もちろん北海道産。
米は、ぼくも本当に良く知り尊敬する山形県・高畠町の「おきたま興農舎」の完全無農薬愛情米。
ぼくの息子も生まれた時からずっと、ここのお米で育ち・・・171cmの僕を、この春追い越し175cmまで成長した。
そして元気にサッカー漬けの毎日を送っている。本当にすばらしいお米に感謝感謝なのである。
(それにしても息子に背が抜かれるのはショックである。この上、娘に子供まで生まれたら・・・僕はリッバな若き壮年期に突入である・・・あぁー。)

話は、それたが・・・最後の塩は、彼が全国を歩き回り、たどり着いた宮古島「雪塩」である。
そして彼は旅で訪ねた沖縄が異常に好きになり、僕の沖縄感とも一致。沖縄事業を企てているのである。

そしてこのお味噌には、もう一つの物語がある。
商品名「あるちざん」である。・・・ぼくらは1980年代、ライターとカメラマンで一緒に仕事をしていた。
音楽の仕事というより、むしろ自然環境やエコロジーの取材を二人で全国を訪ねていた。その中の一つに「おきたま興農舎」のお米との出会いもある。そのなかで彼は実家の家業を継ぐ決心をする。そして田舎の普通のお味噌屋さんを、自分の時代の特徴ある味噌作りに専念するようになる。
「あるちざん」は、当時僕がよく口にしていたらしいのである・・・僕は覚えてないのだが。
「あるちざん」は、山下達郎の「アルチザン」に由来する。当時、ぼくはシンプジャーナルの取材で達郎さんと知り合い、達郎さんの「アルチザン」に、熱狂と尊敬と職人技としての完成度に感心していた。
ちょうど浜田さんの1988年「Father's Son」の頃である。浜田さんの東京・有明でのスタンディングライブに達郎さんが見に来て、ぼくは2Fの正面に場所を取り撮影をしているところに、達郎さんがイベンターの人に連れられて席を案内されてるとき、僕を見つけ「おー内藤くん、俺ここで見る。いいよねっ」と僕のカメラの横でライブを終わるまで見ていった。
案内していたイベンターさんの困った顔が今でも思い出される。そして終わった後、自分の機材の片付けよりも先に彼を楽屋に、なぜか自分が案内していった。
またまた話はずれたが、ほんとうに達郎さんの「アルチザン」は傑作だった。まだまだコンピューターを使った録音が少なかった時代に、あったとしても明らかにコンピューター音楽の軽い抜けた音質だった時代に、彼は7年の歳月をかけ驚くような楽曲に仕上げていた。低音も中音も高音も、ドラムもベースも・・驚く音とうねりで録音され仕上がっていた。
これぞ「アルチザン」・・これこそ職人技である、そして芸術技である。
彼からは凄く誇りを学んだ。それを当時、会う人会う人に言っていたんだと思う。その中の一人が五月女、春駒味噌主人だったらしい・・・。
そしてその後、彼は新しい誇りを持った味噌作りに没頭し、完成・・・そして奥さんにその命名の案を尋ねたらしい。
そして奥さんが口にしたのは、原料を厳選し、幾度も幾度も試行錯誤を繰り返した「アルチザン」・職人だったらしい。
そして、その二つが彼の中で完全に重なり、春駒味噌「あるちざん」が完成、名付けられた。
こうして一つの品物に、たくさんの人の愛情と職人技と物語が結集されている、そして芸術品が生まれる。
ぜひ彼のホームページにアクセスし、手に入れて食して欲しい。そんな彼と今年の夏も沖縄で交差する。
五月女が、あんべを僕に紹介したのは、やはり1988年夏だったし・・・おかげで、あんべさんともそれ以来18年?にもなる長ーい、お付き合いが続いている。
「人の森を旅する道」が出来たとき、五月女の前で五月女に向かって、あんべさんが彼だけの為に歌っている深夜酔っぱらっている姿は一生忘れない。

こうして人も技も、味噌も写真も音楽もサッカーも繋がっているのである。

ここ最近の傾向は、なかなか日記の更新がコンスタントではないのだが、いちど日記を書き始めると異常に長くなってしまう。読む方も大変で文字ばかりでウンザリだと思うのだが最近の傾向なので許してくださいませ。
最後は、やはりサッカー準決勝。県大会出場が決まった試合後の挨拶の図。試合後は相手チームに挨拶。そして監督、チームメイトに挨拶。そして父兄に挨拶を必ずする。
監督も写っていない情けない写真で恥ずかしい1枚なのだが、ここではプロの写真屋さんでなく、ただの父親になってしまっているので撮影する緊張感がない・・・はずかしい1枚。
やはり日頃の仕事ではプロとして写真を撮っている時の、その一瞬を逃さない緊張感と気迫は凄まじいと自分の撮った情けない写真を見て改めて思うのでした。

それにしても何事も「挨拶に始まり、挨拶に終わのだ」
その基本の心を忘れてはいけない。

先週は、ロケハンをし、スーダン行きのため、ある人と、あるNGO団体の方を尋ね勉強し、そのまま車を走らせ馬頭に、茂木の棚田の撮影に・・そして木・金と息子の試合に、そして東京に車を走らせ、年中こうやって動いている。なぜか生命ある限り、何処にでも顔を出すのである。
そして今週は、ワールドカップ日本代表が決まり、スピッツの撮影をして、それから・・・まだまだである。

おれ・・・日記を書いている場合ではない。
撮影の準備と・・・たくさんたくさんある。
息子も魂込めるなら・・・親父も負けてられない日々を過ごそうである。
それでは、また一連が過ぎたあたりでお会いしましょう。

05月15日 (月)   

今日は、早い。日本代表発表の2時間後の日記のアップ・・・すごく早いっ。

あぁー、松井が落選した。。。残念無念。。。
今も明日の準備をしながら、心の中は必死に心の整理しようと格闘している。
昨日深夜も、仕事が一段落して前夜祝いとして松井の試合を観てた。
昨年の初出場したラトビア戦と、昨年の日本代表最後の試合の松井が点を決めたアンゴラ戦。
試合の流れをビールを飲みながら、じっくり観てた。
やはり・・・松井は素晴らしい。試合が流れが硬直したとき松井は独特の持ち味で流れを創れる選手。
本当に成長したと実感する。中田とも小野とも中村とも違う個性が光る・・・僕としては4人目の光り輝くMF選手。
ラトビア戦のボランチの稲本に、その上の右に中田、左に松井、そしてトップ下に中村のダイヤモンド型布陣は、ワクワクする自由な形のサッカーがあった。ぜひともこの布陣の姿をワールドカップで見たかった。
そこには今現存する日本チームの、もう一つのチームという形さえ見えていたのに・・・。
とにかく残念無念・・・・・それにしても僕の手に入れた背番号32松井のユニフォームはどうなっちゃうの?

後は順当だよね。久保落選で巻選出だけれど、今旬な選手が入るということはFWとしてはOKのことだし・・
玉ちゃんも高原も大黒様も入ったし・・・
まぁ、しかし松井のユニフォームを着て精一杯応援する。いよいよワールドカップが近づいてきたよ。

05月19日 (金)   

今日は、展覧会に行ってきた。
たまたまの偶然でいろいろなことが重なって、なんでかしらないけれど写真展に行ってきた。
そこまでには実にいろいろな人が関わっているのだけれど、真っすぐに純粋に写真を見て、感じることができた。
僕のサイトでも、勝手に尊敬する写真家をリンクで紹介しているのだけれど、その中のひとり・・・
マイケル・ケンナさんの写真展のパーティーに行ってきた。
明日から東京都写真美術館で開催される写真展の内覧会。
僕は関係者でもなんでもないけれど、実に不思議な人間関係・友人関係で招待された。
皆さんにも、ぜひ時間を作っていただき、その写真展を見ていただきたいと思う。
取り急ぎ、今日はあと20分くらいしかないのだけれど、紹介したくて、この日記を書いている。
いつも通り酔っぱらっているので文章もとりとめもないのだけれど、ぜひぜひ皆さん、足を運んでください。
明日から約1ヶ月以上の期間、写真展をやっているので時間を作って、ぜひあの写真たちを見ていただきたいと思います。
取り急ぎ、今日の僕は彼の数々の写真を見させていただき、最高に幸せだし、刺激を受けるし、反省もするけれど・・・
また、改めて沸々とバイタリティーが溢れてきました。・・・・それくらい素晴らしい写真展、そして彼の仕事をじっくり味わってみてください。

それでは、また・・・

と、思って・・・ぐずぐず日記を書いていたら、12時を超えてしまい20日になってしまいましたが、このまま更新します。
それにしても不意義な縁です。今日、ぼくを招いてくれた人とは音楽的ルーツが、ほぼ同じ人なんです。
音楽の世界でも、写真のファインアートの世界でも繋がっているんだなぁ・・・と、つくづく思う素晴らしく感動の写真展と人の繋がりを感じた嬉しい1日でありました。